2012/03/06

花伝書(風姿花伝) 世阿弥篇


花伝書(風姿花伝)の現代語訳を読了。花伝書(風姿花伝)は、およそ600年前の南北朝時代(鎌倉と室町の間)に観阿弥が長男の世阿弥に口述した能楽論。能の成り立ちから、稽古の心得、Q&Aまでが記されております。芸術論に納まらず、人生論にまで通ずることが書かれており、今なお読み継がれているという類い稀なる書とのことです。そんな花伝書の中から気になった文章を忘れないように本ブログにメモ。中でも気になったのは、"芸能とは、どんな人にも感動を与え生命を豊かにするものだ"ということが語られている一文。わたしは、こうした人間の本質的な部分に踏み込んだことまで語られているという点が本書の魅力なのではないかと感じました!

以下、本文より抜粋

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秘技に「そもそも世の中の一切のことは、陰と陽とが和合する境地があってうまくいくものだ」といっている。


当人のおもわくでは、おれは随分花があると思っていても、その花が見物人の目に見える工夫が無いようなものは、ちょうど田舎の花や薮の中の梅などが、観る人もなく無駄に咲き匂っているようなものだ。


上手は下手の手本、下手は上手の手本になるものだと思って工夫するがよい。


これは秘訣であるが、一体、芸能とは何かと言えば、諸人の心を和らげて、あらゆる階層の人々に同じく感動を催させることである。そして、それが、生命を豊かにすると言う人生幸福増進の基になり、寿命を延ばす方法となるのである。究めつくせば、人間社会すべての営みはことごとく寿福延長(生命を豊かにすること)を目的としているものだ。


要するに花というのは、観る人の心に珍しいと感ずるのが花である。そこで、前に花の段に「物数を究めて、工夫をつくして後、花の失せぬところをば知るべし。」と述べておいたのは、このことである。それだから、「花」と言っても特別に存在するものではない。芸の実力を養い、それを発揮する工夫を会得して珍しいという感じを心得るのが花というものだ。前に「花は心、種は態(花は心の工夫の問題、その花を咲かせるもとになるものはわざである。その両方を養わねばならぬ。)」といったのもこれである。


珍しさを賞でる原理


秘することによる花の効果を知ることが大切だ。秘すればこそ花になる。


古人も「芸の家というものは血統が続くのが家ではない、芸の真髄が続くのが家である。人間は人間の形をしているのが人間ではない、人の道を知っているのが人間である。」と言っている。そういうのが、あらゆる徳をすっかり修めつくした芸の上の妙花を究めた境地というのであろう。





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