2007/10/21

坂の上の雲






























『日本再考〜東北ルネッサンスへの序章〜」より引用

時たまお話する機会のあった司馬遼太郎さんは、自分の「坂の上の雲」という小説が、高度経済成長やバブル経済の応援歌のように読まれているということに非常に嫌な感じを持っておられて、そのことを苦々しくお話しておられたことを思い出します。
考えてみますと、「坂の上の雲」というのは、僕は素晴らしい題名だと思うんですよ。ただ、その当時のほとんどの読者というものは、「坂の上の雲」に込められたアイロニーというものを理解できなかったのではないか。司馬さんという方は、ああいう気持ちのいい登場人物を書かれますが、かなり冷静な近代主義者でしたから。「坂の上の雲」という題名はおもしろいですね。坂の上の果実でもない、坂の上の花でもない、坂の上の城でもない。いろんなものを犠牲にしながら峠を突っ走っていく、アジア諸国をゴボウ抜きにして峠のてっぺんまで駆けあがる。目標は坂の上の雲である。しかし、峠のてっぺんに立ったときに、雲というのは掴めるかというふうに考えますと、日本では"雲を掴むはなし”と昔から言いまして、花であれば摘むことができる、城であれば攻め落とすことができる、果実であればもぎ取ることができる、

しかし坂の上の雲を目指して突っ走っていって坂の上に到達したときに、雲は掴めるか。雲はさらに彼方の空遠く棚引いているだけである。



すなわち坂の上の雲というのは、けっして実現することのできない希望ということなんですね。そう考えますと「坂の上の雲」という、一見希望に満ちた題名の背後に、非常な深い虚脱感とか絶望感というものが横たわっているということが気づかないと、我々はあの本をちゃんと読めない。